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奥成達資料室blog版

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2007年 08月 20日

「あいぽえむ」1

「あいぽえむ」1_c0069542_21345519.gif昭和37年11月14日発行
CLUB EYE POEM
JKデザイン研究所
同人:福沢道生、肥田準、松島成、奥成達

p1)
Eye Poem  奥成達(Okunari Satoru)
その発生の初期に於て歌われたという事から、詩の本質は歌謡性あるいは音楽性にあるとされた思考は既に否定された。そして「何ものよりもイメジを」あるいは「言語は僕達に於ては単純な材料にすぎぬ。抽象詩に於ては厳密な意味では比喩も隠喩も象徴も存在しない。ただ記号としてのカリグラフイがあるばかりだ」「視覚の世界は聴覚の世界よりも遥かに多い。詩の美というのは音楽性よりも絵画性によって多く来る」というのである。

もはや僕等にとって「詩」とは文学の一形態ではなく、絵画とか音楽とかいった枠をもとり除いた在来の概念のなかでは伝えることのできない「何か」であると考えることは普遍的でさえある。現代詩はその伝達の方法が多く視覚に拠ることによって詩の絵画性の比重は大きい。しかしその場合の詩の絵画性が言葉の意味を通してのみ表現される事は明白である。それは意味が描く心象風景であり、心的イメジである。だが心象の形成は意味の高率の上にのみ可能なことか。逆にいえば響きの駆使による新しい心象造形というものはないだろうか。響きは「リズム」に置換えられる。

絵画性についても同様に考える。「詩は一つの創造されたものであることはその性質である。この世界から僕は凡ゆる思想・思考・情念・勘定を除こうとする。もう考えたり、感じたりすることを言葉で表現しようとする悪いくせを排除したい。ブレイクは詩はvisionであってthoughtではないという。それは全く絵画彫刻的なものである。その通りの詩の作品を作ろうと努力している。ブレイクは道徳論が、彼の詩のイデオロギイであるが、僕は如何なるイデオロギイも排除した詩が好きだ。」

絵画性に多くの目的をもって詩を書いていた詩人達はたくさんいる。アメリカのケネス・エル・ボードワンの「a room of grace of grace and glory of glory」という刺繍は、新聞紙の上に他の雑誌から切り抜いた活字を様々に貼って、より視覚的にのみ構成されていて、1948年に出たこの詩集は、Eye Poemをして「外の世界にすでに存在している「もの」それ自体の神秘的な力を利用してある種の暗示的な帽子を茂らすのに成功している」注目を集めた。その他、E.E.カミングスの印刷美術的な詩形や、1949年に「暗やみの祝賀会」を出した、ウィリアム・ジェイ・スミスのタイプライターを首都した作画的な詩。古くアポリネールの「カリグラム」なども詩を言葉の秩序にしたがって排列するよりも視覚的に構成しようとしている点で、かなりEye Poemであった。そして、ブラジルのL.C.ヴニョーレスを中心としる形象詩(ポエマ・コンクレート)がある。これは「言語そのものがもっている音や形のイメージを、音楽的に、また造形的に組合わせたり、あるいは分解したりすることによって、これまで私達が考えてもみなかったような新しい詩を作ることができる」 しかしこれも僕を満足させない。それはこれらもあらかじめ文学の世界に入ってしまっていることで、言語文学を使った観念的遊戯でしかないものが多いのだ。むしろ僕は思い切って詩を文学というジャンルから切りはなしてしまいたい。常に僕の詩はあらかじめジャンルに入っていない。あとで詩になるのでもない。詩になっていくのである。それはボードワンやスミスとは違うのである。

「僕の求める美はすべてを忘れさせ、すべての情欲情念、思考感覚それ自身の活動を停止させてしまうようなものである。非常に稀薄な人間の世界である。ものそれ自体の中をぼんやりみていることを求める。何も考えないことである。ただ視覚から純粋に受ける非常に抽象的な感覚だけを受けていることである。その間何等人生的意味を感じないことである」 僕の考えるEye Poem に具体的に最も近いものは、一つはアンリミショオのとらえどころのない自由なモノトニーなデッサンである。全くそれは従来の詩ではない。別の詩感がたしかに迫ってくるのである。そしてこの途方にくれさせるこの詩はどこの体系にも結びつかない。もうひとつはホアン・ミロのどこからくるのかわからない不確かで、ぼやけた形の見きわめられない記号の世界にシュールの生理形態的なものを越えた新しい詩を見ることができるのである。「イデーとは違う精神的な物質の存在を知った」 思想と感情との思考を去って純粋にビジョンの世界に入ることである。それは「禅のようなもので思考による説明があり得ない」のだ。ミロについてのブルトンの言葉がある。「一つの欲望しかミロにはないだろう。それは描くためにだけ純粋なオートマチズムに身を委ねようとする欲望なのである」 そしてミロは「私にとっては形は抽象的なものでなくて、それはいつも何ものかの徴である。私にとって形はけっして形のための形でない」 そして「ミロは描きあげない。彼は筆をとどめる」のである。表現的なのではなくランボオの見者のようで、ヴイジオネールの合理精神はない。シンボリックなものも分析可能なものもなく、純粋に記号で埋められていなければならない。もちろん詩人の個人的で具体的な動機なんかは作品には関係なく。作品そのものが具体的直接的な感覚そのものの直接的具体化となるのである。描く行為だけで詩を作るということは肉的構造的な意味だけを受ける。それは死なんとする人間の眼に映ずる最後の存在形式である」 このかなり進行形的な絶望的なほどの無限の可能性のなかに身をなげいれ「個性」なんぞにツバを吐いてしまおう。

そして Eye Poem により近いものとして現代音楽の楽譜のもっている偶然性に依存された記譜法にある。「記譜法とは作曲家の思想を音に結びつけるための媒介的存在であり、抽象記譜法では作曲者は多くの可能性を示唆するのにとどまる。その可能性は作曲者もはかりしれない世界である。」  この一つ一つに具体的な意味をもっているとは限らない譜を音楽におきかえる瞬間の演奏家の感覚は Eye Poem の読者の態度である。弾いてしまったら音楽であるが、その音の選択をする以前の、何の意識の介入のない一瞬間こそ Eye Poem の観賞の態度なのだ。そしてその楽譜は一篇の詩である。

この辺のことがかなり難解な問題となってくる。「思考による説明はあり得ないのだが」 この世界では、「その人生的無条件の中に詩の世界を創作することで」というより行為することで、「純粋な感覚美は自己の存在を忘れる」のだ。それ自体がそれ自体であって、「存在するものを表現するのでなく未だ無いものを発見することである」 (未完)

*このエッセイを書くにあたって次の人々の作品を引用しました。北川冬彦、VOU、西脇順三郎、藤富保男、柴田基典、北園克衛、A.ブルトン、ホアンミロ、飯島耕一、一柳慧


作品「あいぽえむ」1_c0069542_21371449.gif
■45回転のスピイドでレコオド盤のようにして下さい。


by 4-kama | 2007-08-20 16:23 |


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