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2008年 08月 26日

赤塚不二夫さんの思い出

公明新聞
2008.8.17(日)

赤塚不二夫さんの思い出
天衣無縫のギャグ人生——ガンに負けても「これでいいのだ!」
詩人・ジャズ評論家 奥成達

 もう三〇年ほど前に「人間ギャグ・赤塚不二夫」という文を書いたことがある。
 つまり赤塚不二夫にとってギャグとは、漫画やコントのネタなどではなく、どんなアホな問いに対しても絶対に答える用意のできる、自分の「魂」のことなのである、と。……
 赤塚不二夫さんと最初にお目にかかったのは1969年、いわずとしれた下落合・ひとみマンションのフジオ・プロである。「天才バカボン」の全盛期だった。ぼくは27歳。赤塚さんは1935年生まれだから34歳。
 日本テレビに「歌う王冠」という歌謡番組があったぼくはその構成者として、当時爆発的大人気の「天才バカボン」にあやかってなんとか視聴率を上げられないものかという魂胆で、当時同じく「365歩のマーチ」で大ヒット中の「チータ」こと水前寺清子さんと二人を司会者としてドッキングさせることを計画した。タイトルは「チータとバカボン」。 
 月2回の公開録音で2本録り。場所は大手町・産経ホール。こうして赤塚さんと月に2回はお目にかかるようになった。……
 1974年に赤塚さんが突然「山田一郎」と名前を変えたことがあった。
 さっそくぼくはその「赤塚不二夫」の名をもらって、多分半年間ぐらいだったと思うが「二代目・赤塚不二夫」になりきって仕事をしていたことがある。
 こんなことを面白がって平気でやってしまう人なのである。けっして威張ったり、偉ぶったりするところがまるでない。
 ところが「山田一郎」名の評判が悪くて、やむなく元の「赤塚不二夫」に名を戻したので、今度はぼくが「山田一郎」になって勝手に仕事を始めた。
 と、まあ一体なにをやっているんだろうかと思われるかもしれないが、という遊びをやたらに面白がる人だった。……

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by 4-kama | 2008-08-26 08:45 | 二代目赤塚不二夫
2008年 08月 25日

元気な団塊世代の日本再生セミナー

元気な団塊世代の日本再生セミナー

7/24(木)「昭和30年代村」SPECISALセミナー 
「なつかしの昭和30年代図鑑」
第2部ゲスト講師 奥成達(詩人・エッセイスト)

1942年東京都品川生まれ。詩人、ジャズ評論家、著述家、漫画原作者、編集者、作詞家、トランペット奏者などマルチに活動している。詩人北園克衛の影響を受けて10代から詩作を始め、15歳にして北川冬彦が主宰する詩誌「時間」の同人になるう。雑誌記者、タウン誌編集長などを経て、現在は青山学院大学文学部講師を務める。様々な種類の活動を通して、日本のサブカルチャー界に広い人脈を持ち、執筆活動を行っている。イラストレーターのながたはるみとコンビを組んだ『なつかしの昭和30年代図鑑』『駄菓子屋図鑑』『昭和こども図鑑』等を出版。昭和30年代を中心としたノスタルジーを感じる内容は様々な年代に注目されている。

主催:ツカサ都心開発株式会社セミナー運営事務局
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by 4-kama | 2008-08-25 20:53 | 昭和なつかし関係
2008年 08月 17日

公明新聞 2008.8.17

公明新聞 2008.8.17

赤塚不二夫さんの思い出 詩人・ジャズ評論家 奥成達
天衣無縫のギャグ人生 ガンに負けても「これでいいのだ!」
 もう三〇年ほど前に「人間ギャグ・赤塚不二夫」という文を書いたことがある。
 つまり赤塚不二夫にとってギャグとは、漫画やコントのネタなどではなく、どんなアホな問いに大しても絶対に答える用意のできる、自分の「魂」のことなのである、と。
「赤塚不二夫の現在の日々の生活すべて、日々の瞬間瞬間に意欲し続けているものすべてがギャクなのであり、その姿勢こそギャグ精神そのものなのである。」と、書いた。
 そして、
「ギャグ精神は、ころがりだした車輪にたとえるといい。自分の力の自転的な世界にこそ、何等の阻害も拘束もない真のギャグ精神があるのだ。」とも。
 つまり赤塚ギャグとは、いわば痛快な冒険の日々そのもののこと、だった。
 一緒にさまざまな仕事をしていると、赤塚さんのこのギャグへの献身ぶりが尋常の努力ではないことがヒシヒシと肌身に伝わってきて、その不断の勇気に励まされ、圧倒されること度々であった。
 そして反面、いつもやさしい大人気の「天才バカボン」にあやかってなんとか視聴率を上げられないものかという魂胆で、当時同じく「365歩のマーチ」で大ヒット中の「チータ」こと水前寺清子さんと二人を司会者としてドッキングさせることを計画した。タイトルは「チータとバカボン」。
 月二回の公開録音で二本撮り。場所は大手町・産経ホール。こうして赤塚さんと月に二回はお目にかかるようになった。
 最近復刻版の出た赤塚不二夫責任編集『ベスト・オブ・まんがNo.1』や、CD・赤塚不二夫と全日本満足問題研究会「ライブ・イン・ハトヤ」など、赤塚グループがことあるごとに、ぼくを仲間に呼んでくださった。
 1974年に赤塚さんが突然「山田一郎」と名前を変えたことがあった。
 さっそくぼくはその「赤塚不二夫」の名をもらって、多分半年ぐらいだったと思うが「二代目・赤塚不二夫」になりきって仕事をしていたことがある。
 こんなことを面白がって平気でやってしまう人なのである。けっして威張ったり、偉ぶったりするところがまるでない。
 ところが「山田一郎」名の評判が悪くて、やむなく元の「赤塚不二夫」に名を戻したので、今度はぼくが「山田一郎」になって勝手に仕事を始めた。
 と、まあ一体なにをやっているんだろうかと思われるかもしれないが、という遊びをやたら面白がる人だった。
 1998年に紫綬褒章受章の連絡の電話がきたときに「何でオレみたいなバカにくれるの?」とわざわざ聞き返したという話は有名だが、さすがの赤塚節だと思い、懐かしく、感動した。
 天衣無縫、天真爛漫の人間ギャクもさすがにガンにはかなわなかったが、きっと「これでいいのだ!」とニッコリ笑顔でおられるはずである。

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by 4-kama | 2008-08-17 19:19 | 二代目赤塚不二夫