奥成達資料室blog版

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2007年 08月 20日

「新人類学」NEW ANTHROPOLOGY 2 autumn1961

編集:奥成英輔
発行所:新人類学社
昭和36年10月1日発行
¥50

Editor in Chief : Okunari Hidesuke
Published by New Anthropolical Society
Single Copy ¥50,- abroad 50 cents
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Essay ・ 
見えない人  藤富保男
チエーザレ・パヴェーゼとその時代  井出正隆
Poem ・
農学  奥成達
空をかぶる男  白石かずこ
燃え殻  伊林俊延
老人の死  福沢道生
訣別  清水つね子
詩4つ  浦田康子
*****  村上史子
Fiction ・
かわいそうな女  長谷邦夫
国道で夕焼けを拾った話  松原元信
仏陀のささやき(2)  奥成英輔
A HOT HOUSE
編集後記

写真:鳥居良禅
カット:伊藤朝彦
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by 4-kama | 2007-08-20 17:30 |
2007年 08月 20日

「新人類学」DIONYSOS 10号

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発行所:新人類学社
1966.9.1発行
川辺元、福沢道生、村岡久美子、奥成達

p29)
古都にて  第3回   僕の愛と時間    奥成達
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by 4-kama | 2007-08-20 17:23 |
2007年 08月 20日

「夏のあとには秋が……」

c0069542_21265842.gif1958.10.16
都立城南高等学校一年一・二組
発行責任者:国語 北村佐太夫
読書一九五八年夏の反省
p55)
カミングズ詩集   奥成達
……この夏の終わり近く詩人藤富保男氏の手によって翻訳詩集が出版されたことは、今までアメリカ詩人集とか、世界現代詩選集だとかに、非普遍的だとかはっきりしない前衛詩学だとかいわれて、日本に影のうすかったカミングズが再認識されるよい機会であったと思う。おかげで僕は、カミングズの一貫として流れる彼の芸術の実験派のセンシビリテイとスピリットを失わない迫力を、まざまざと受け取ることができた。
藤富先生は詩の研究会の帰り、この訳詩集を出す前の七月末に、渋谷のコーヒー店、New Paulista で、ペレスブラドのマンボの中で南米男みたいに、たくましく笑っておっしゃったことがある。「徹底的に自己を隔絶することによって文明を批判し、淡いけれど詩的必然性を感情や情緒の軸に支えて虚無感をただよわす、これがカミングズの詩がもつ倫理だよ」。藤富先生は、この「カミングズ詩集」の最初に「チュウリップと煙突」という詩を例にして同じことを書いていられる。
言葉の機能を充分に活用して随意に働かせているのは、一見あまりにも奇異な詩の展開方法におもえるが、その底を流れる詩的現実は確かな圧力でおおいかぶさってくる。とにかく、何回も時間をかけて読むことによって、素晴らしい詩集であることがわかると思う。藤富先生にいただいたこの詩集は、この夏だけでなく、僕の一生の愛読書となるだろう。夏休みにたとえ何冊の小説を読んだとしても、これ程の感動と愛着を感じることはなかったのではないかと思う。

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by 4-kama | 2007-08-20 17:13 |
2007年 08月 20日

「あしあと」1

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昭和40.4.25
エスエス製薬ワンダーフォーゲル部

p4)
初級ハイカーとしての僕   奥成達
エスエスに入社して、どうやら五ヶ月。ワンゲルに入部してまだ五ヶ月。まだ「山の魅力」なんてことは、山崎さんぐらいの大ベテランでないといえないコトバであって、今の僕にはその資格はないようだ。
……

P20)
編集後記  奥成
……この小誌にぜひ寄稿を下さい。詩・エツセイ・なんでもOK。楽しくドメスティックなものにしたいと思いますので。

表4)
「あしあと」なつかしいこの言葉の持っている意味が、今の都会にはない。コンクリートの舗道には、幼い頃にもっていた大地の感触も、おしっこが浸みわたっていく、あの自然と結びついた美しい人間の状態が見当たらない。そして、そんな願いをこめて、この小誌を愛そう。「あしあと」をぜひ僕等にとりもどそう。

*記名はないが奥成達によるものであろう。(4-kama記)


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by 4-kama | 2007-08-20 17:00
2007年 08月 20日

「まど」

c0069542_21322858.gif昭和31.9.23
東京都品川区立浜川中学校文芸部2、3年生

p12)
詩  奥成達

びっくり箱

圧迫からの
長い沈黙
そして
時間の
解放


とびだした
首だけの私


消燈

光と一緒に  希望が
電球に吸いこまれてしまった

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by 4-kama | 2007-08-20 16:34 |
2007年 08月 20日

「あいぽえむ」1

c0069542_21345519.gif昭和37年11月14日発行
CLUB EYE POEM
JKデザイン研究所
同人:福沢道生、肥田準、松島成、奥成達

p1)
Eye Poem  奥成達(Okunari Satoru)
その発生の初期に於て歌われたという事から、詩の本質は歌謡性あるいは音楽性にあるとされた思考は既に否定された。そして「何ものよりもイメジを」あるいは「言語は僕達に於ては単純な材料にすぎぬ。抽象詩に於ては厳密な意味では比喩も隠喩も象徴も存在しない。ただ記号としてのカリグラフイがあるばかりだ」「視覚の世界は聴覚の世界よりも遥かに多い。詩の美というのは音楽性よりも絵画性によって多く来る」というのである。

もはや僕等にとって「詩」とは文学の一形態ではなく、絵画とか音楽とかいった枠をもとり除いた在来の概念のなかでは伝えることのできない「何か」であると考えることは普遍的でさえある。現代詩はその伝達の方法が多く視覚に拠ることによって詩の絵画性の比重は大きい。しかしその場合の詩の絵画性が言葉の意味を通してのみ表現される事は明白である。それは意味が描く心象風景であり、心的イメジである。だが心象の形成は意味の高率の上にのみ可能なことか。逆にいえば響きの駆使による新しい心象造形というものはないだろうか。響きは「リズム」に置換えられる。

絵画性についても同様に考える。「詩は一つの創造されたものであることはその性質である。この世界から僕は凡ゆる思想・思考・情念・勘定を除こうとする。もう考えたり、感じたりすることを言葉で表現しようとする悪いくせを排除したい。ブレイクは詩はvisionであってthoughtではないという。それは全く絵画彫刻的なものである。その通りの詩の作品を作ろうと努力している。ブレイクは道徳論が、彼の詩のイデオロギイであるが、僕は如何なるイデオロギイも排除した詩が好きだ。」

絵画性に多くの目的をもって詩を書いていた詩人達はたくさんいる。アメリカのケネス・エル・ボードワンの「a room of grace of grace and glory of glory」という刺繍は、新聞紙の上に他の雑誌から切り抜いた活字を様々に貼って、より視覚的にのみ構成されていて、1948年に出たこの詩集は、Eye Poemをして「外の世界にすでに存在している「もの」それ自体の神秘的な力を利用してある種の暗示的な帽子を茂らすのに成功している」注目を集めた。その他、E.E.カミングスの印刷美術的な詩形や、1949年に「暗やみの祝賀会」を出した、ウィリアム・ジェイ・スミスのタイプライターを首都した作画的な詩。古くアポリネールの「カリグラム」なども詩を言葉の秩序にしたがって排列するよりも視覚的に構成しようとしている点で、かなりEye Poemであった。そして、ブラジルのL.C.ヴニョーレスを中心としる形象詩(ポエマ・コンクレート)がある。これは「言語そのものがもっている音や形のイメージを、音楽的に、また造形的に組合わせたり、あるいは分解したりすることによって、これまで私達が考えてもみなかったような新しい詩を作ることができる」 しかしこれも僕を満足させない。それはこれらもあらかじめ文学の世界に入ってしまっていることで、言語文学を使った観念的遊戯でしかないものが多いのだ。むしろ僕は思い切って詩を文学というジャンルから切りはなしてしまいたい。常に僕の詩はあらかじめジャンルに入っていない。あとで詩になるのでもない。詩になっていくのである。それはボードワンやスミスとは違うのである。

「僕の求める美はすべてを忘れさせ、すべての情欲情念、思考感覚それ自身の活動を停止させてしまうようなものである。非常に稀薄な人間の世界である。ものそれ自体の中をぼんやりみていることを求める。何も考えないことである。ただ視覚から純粋に受ける非常に抽象的な感覚だけを受けていることである。その間何等人生的意味を感じないことである」 僕の考えるEye Poem に具体的に最も近いものは、一つはアンリミショオのとらえどころのない自由なモノトニーなデッサンである。全くそれは従来の詩ではない。別の詩感がたしかに迫ってくるのである。そしてこの途方にくれさせるこの詩はどこの体系にも結びつかない。もうひとつはホアン・ミロのどこからくるのかわからない不確かで、ぼやけた形の見きわめられない記号の世界にシュールの生理形態的なものを越えた新しい詩を見ることができるのである。「イデーとは違う精神的な物質の存在を知った」 思想と感情との思考を去って純粋にビジョンの世界に入ることである。それは「禅のようなもので思考による説明があり得ない」のだ。ミロについてのブルトンの言葉がある。「一つの欲望しかミロにはないだろう。それは描くためにだけ純粋なオートマチズムに身を委ねようとする欲望なのである」 そしてミロは「私にとっては形は抽象的なものでなくて、それはいつも何ものかの徴である。私にとって形はけっして形のための形でない」 そして「ミロは描きあげない。彼は筆をとどめる」のである。表現的なのではなくランボオの見者のようで、ヴイジオネールの合理精神はない。シンボリックなものも分析可能なものもなく、純粋に記号で埋められていなければならない。もちろん詩人の個人的で具体的な動機なんかは作品には関係なく。作品そのものが具体的直接的な感覚そのものの直接的具体化となるのである。描く行為だけで詩を作るということは肉的構造的な意味だけを受ける。それは死なんとする人間の眼に映ずる最後の存在形式である」 このかなり進行形的な絶望的なほどの無限の可能性のなかに身をなげいれ「個性」なんぞにツバを吐いてしまおう。

そして Eye Poem により近いものとして現代音楽の楽譜のもっている偶然性に依存された記譜法にある。「記譜法とは作曲家の思想を音に結びつけるための媒介的存在であり、抽象記譜法では作曲者は多くの可能性を示唆するのにとどまる。その可能性は作曲者もはかりしれない世界である。」  この一つ一つに具体的な意味をもっているとは限らない譜を音楽におきかえる瞬間の演奏家の感覚は Eye Poem の読者の態度である。弾いてしまったら音楽であるが、その音の選択をする以前の、何の意識の介入のない一瞬間こそ Eye Poem の観賞の態度なのだ。そしてその楽譜は一篇の詩である。

この辺のことがかなり難解な問題となってくる。「思考による説明はあり得ないのだが」 この世界では、「その人生的無条件の中に詩の世界を創作することで」というより行為することで、「純粋な感覚美は自己の存在を忘れる」のだ。それ自体がそれ自体であって、「存在するものを表現するのでなく未だ無いものを発見することである」 (未完)

*このエッセイを書くにあたって次の人々の作品を引用しました。北川冬彦、VOU、西脇順三郎、藤富保男、柴田基典、北園克衛、A.ブルトン、ホアンミロ、飯島耕一、一柳慧


作品c0069542_21371449.gif
■45回転のスピイドでレコオド盤のようにして下さい。

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by 4-kama | 2007-08-20 16:23 |
2007年 08月 20日

「いずみ」第四号 五六年文集

c0069542_21394543.gif昭和28年9月10日発行
発行:品川区教育会国語研究部
編集代表:品川区立源氏前小学校内 吹野○夫

P29)
ぼく  奥成達

ぼくは奥成達である。三男坊だ。ちょうどまん中なので、とても都合が悪い。第一、けんかをすれば、「おにいさんに向って何です。」といわれるか、「弟をいじめて何です。」としかられるかである。けんかはさておいて第二である。この兄きのぼくににて、弟はとてもいたずらっ子だ。この間もおとうさんのくつの中に石を入れて、知らん顔をしている。おとうさんが、石をふんでとび上った位だ。これもぼくが、悪いことを教えるからだと大目玉。
これだから、みんなも三男坊に生まれるのは、よしましょう。
この三男坊のぼく、つまりさとるちゃんは、昭和十七年、六月三十日の夜に、だれもでもがいうように、「オギヤァ」と、いって生れたらしい。体をお産ばさんがびしょびしょ、まことに元気だ。この間、泳げないのがしゃくで、プールの一番深い所にとびこんで水をのんだ。小さいにいさんは、「坊ちゃん」みたいだといってわらっていた。そのくらい、まけずぎらいなのだが、これが勉強となるとどうもだめだ。「きょうからは、やるぞっ」と、心の中ではそう思っても、三日たつと、だんだんめんどうになってくる。そういう人のことを、「三日坊主」というらしい。このぼくの三日坊主をなおしてくれる人はいますか?
この元気で、まけずぎらいの、おまけに三日坊主の三男、奥成達君に声えんを、おくって下さい。

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by 4-kama | 2007-08-20 15:29
2007年 08月 20日

「鮫濱」 1951 

c0069542_21441668.gif発行者:鮫濱小学校創立75周年記念会
代表者:委員長 芝崎友次郎
編集: 委員長 今野勇作
編集: 主任 浜洋三
印刷所:杜陵印刷株式会社


p27) 
児童作品

おまつり   三ノ三   奥成達
お兄さんは朝早くからおみやへいって、まだかえってきません。ただ遠くでたいこの音がきこえるだけです。今日はおまつりなのです。ぼくは外へでると雨なのでがっかりしました。そこえお兄さんがびしょびしょになってかえってきました。学校からかえっってもまだ雨がふっているので、おみこしは出ていません。しかたなく、弟とおり紙をおっていると、外できゆうに『わあッ』というかんせいがおこりました。いそいで外に出てみると、ぼくらの町の子供みこしがやってきます。ぼくは走っていって、いまにもつぶれそうなお兄さんのところをたすけてあげました。あとはたるみこしとぶつかったり、もめもめをしたりして、やっともとのところにかえりました。ばんになって、あしたのおみこしを楽しみにしながらぐっすりとねむりました。


・文中、「もめもめ」って、何なんでしょう?(4-kama記)
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by 4-kama | 2007-08-20 14:59 | 雑誌登場編
2007年 08月 20日

「遊行」 壱 創刊号 

c0069542_21463866.gif1976.7.7
編集同人:上杉清文、遠藤文祥、加賀随唱、橋爪一能、平野謙山、丸茂湛祥
表表紙表裏絵:南伸宏
発行所:遊戯の友
写植:岳南市民新聞・写植部
印刷:岳南印刷株式会社

p36)
遊突飛也
日本幻覚道〔番外篇〕1 奥成達

夢が眠りをきたす脳内過程にともなう現象であることからも考えられるように、ある種の脳内の過程は夢に似た体験を生じせしめることがある。
つまり眠っているとき夢をみるのが夢の正常位で、マリファナやLSDで夢をみるのが変態のようなあつかいをうける日本のような場合、後者のことは幻覚と呼ぶ。
……
そこでまず、かの花のラリハイ道から入門することがわが日本幻覚道入門への第一歩である。
古来、ラリハイをめぐってなされてきた、様々な議論の根本的誤りは、申すまでもなく、それらの諸議論に老いて”ラリハイ道”の認識が皆無であった、という点にある。
なるほど、ラリるということの中核には、かの2・メチル3・オリトトリール キナゾロンなる成分を含む睡眠剤を服用する、ということが必要条件として存在するわけであるが、我々の興味は決して単にこの化学式が前頭葉に及ぼす影響のもに向けられてはならない。
「ラリハイとは、”人の道”であります。それを飲み下す瞬間を一つのクライマックスとする、最高のヒューマンリレーションの表現体系なのであります。(ピアニスト・乙骨健太郎)」
というのが一流ラリリスト・乙骨氏の意見である。……

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by 4-kama | 2007-08-20 14:49 | サブカル雑誌
2007年 08月 20日

「まど」2の4編集 

c0069542_21493078.gif昭和35年3月発行
都立城南高校2年4組 代表:岸田  編:秋山、江川、奥成、倉片、鱸、矢野
印刷:氏野プリント社

アンケートにこたえる奥成達

1)自己宣伝と趣味
   超ダダイストです
2)2年4組印象に残ったこと
   何も印象に残らなかったということです
3)理想の男性、女性
   理想の男性
   アメリカン・ジゴロのような人。例えば俳優はフィリップ・クレイ。僕似ていない人。
   理想の女性
   詩と絵画と音楽を広く理解する日本臭くない人
4)ちょっとひとこと
   ・ 19世紀の頭は現実的に考える。20世紀の頭は機能的に考える。
   ・宗教はセンスとアイディアのスパゲティである
5)10年後のあなたはどうなっていると思いますか
   「善人は若死する」とかいいますから、僕の生命はほとんど保証できません。
    生きていればきっと巨大な社会の裏側で無数の原稿用紙にうずもれて
   誰かさんとモダン・ジャズでも聞いていることでしょう。
6)今、1000円もらったら何を買うか
   考えますから1000円をとりあえず僕の手の上にのせてみてください。


人物寸評に登場する奥成達

貴方の趣味は良いけれど馬鹿笑いが珠にきず(トップさん)


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by 4-kama | 2007-08-20 13:04